[RCCドラムスクール特別企画]
日本音楽界の至宝・猪俣猛と、スタジオ・ミュージシャンとして超多忙を極めた3人の名ドラマーが45年ぶりの再会!
“ネム音楽院”師弟座談会
Scene2
[RCC特別企画]ネム音楽院師弟座談会
《Scene2》
“プロってこういう世界なんだ……”
身をもって知るトッププロの世界
《Scene2》
“プロってこういう世界なんだ……”
身をもって知るトッププロの世界
──講義の内容自体は、それぞれの先生が考えるんですか?
猪俣:それまでも教えてはいたんだけど、ちょうど40歳になったときに、本格的に教えるんだったらこのままじゃイカンと思って、ボストンまで行ってバークリー音楽大学のアラン・ドーソンに1週間くらい教わったんだよ。1回45分しかもらえなくて、その1週間でたまたま2回、時間がとれたから、もう時間がもったいないから、あらかじめ質問を箇条書きで書いておいて、質問だけして。
──それはRCCができる直前ですか?
猪俣:そうそう。俺が40歳のときだから。で、しばらくしてRCCを作ろうと。
──猪俣先生がネム音で使っていたいろんな題材が、RCCの教則本にそのままつながっていくんですか?
猪俣:アラン・ドーソンから学んできたものをまとめたものだよ。だから僕にとってアラン・ドーソンっていうのは恩人というかね。アランからも「先生というのは良い仕事だからやりなさい」って言われたんだよ。僕は個人的に習いに行ったつもりが「先生もやる気がある」って言ったら「それはぜひやりなさい」って。
瀧本:アラン・ドーソンの教則本は俺も使ってますけど、やっぱりすごくいいですよね。
猪俣:ドラムでは、最も有名な指導者じゃない? 黒人(アフリカン・アメリカン)なんだけど、それっぽくないドラムだったよね。非常に知的で。
瀧本:僕も先生に教えてもらって教則本を買いましたけど、アラン・ドーソンがもうドラムの基本的な練習法を確立してましたよね。僕は、猪俣先生とか猪瀬先生にロジックとテクニックももちろん教わりましたけど、猪俣さんに一番鍛えられたのは“メンタル”ですね。
猪俣:誰が? 俺?(笑)
瀧本:猪俣さんですよ(笑)。だって今でも鮮明に覚えてるけど、俺は初見なんてできるわけないのに、いきなりご自身のフルバンドのこんな長いパート譜を渡されて、その場でレコードかけて、「はい、いくぞ!」って(笑)。で、もちろんできないから、間違えるとスティックをバーン!って投げてくるわけ(笑)。
猪俣:あ、それ覚えてる(笑)。
(一同爆笑)
アラン・ドーソン(左)、猪俣猛(右)
瀧本:そのスティックを避けるのと叩くのと、もう大変でした(笑)。
宮崎:それは覚えてないなぁ。
岡本:俺も覚えてないなぁ。瀧本はそれだけ期待されてたんだよ。俺はできないから、それどころじゃない(笑)。
猪俣:絶対に当てないように投げるわけ(笑)。
──実はそういうお話を伺いたかったんです(笑)。そういう厳しさって、おそらく“現場ですぐに通用するよう”にってことだったと思うんですけど。
瀧本:僕らが若い頃は、(スタジオでの仕事は)まだぎりぎり2chで同時録音っていう仕事があったんです。予算のないものは。そこでは当然、間違えたら全員最初からやり直しだから。あのプレッシャーはすごかったなぁ。
岡本:ドラマーは痛い目に遭うよね。ドラマーがヘタだったらボロボロだから。
瀧本:「なんだよ、今日のドラマー誰だよ!」とかって、わざと聞こえるように言う人がいるからね。
岡本:「帰るぞ!」って人もいた。
瀧本:いたいた。あと怖かったのが、“チャンピオン”って呼ばれてたトロンボーンの新井英治さんね。もう“すいません……”、“胃が痛い……”みたいな感じでした。でもそういうときに、猪俣先生の“スティックぶん投げ”のおかげで(笑)、ココ!っていうときに集中しないとってことは鍛えてもらったと思う。
宮崎:俺は“スティックぶん投げ”は覚えてないけど、今やってる曲への集中の仕方っていうのは、やっぱり猪俣先生に教わったし、ネム音楽院の頃に培われましたよ。
──もともとネム音楽院は「プロを育てなさい」というコンセプトだったわけですよね。そこは猪俣先生の中でも徹底的にやるぞ!という意識だったんですか?
猪俣:そういう意識はあったね。「よし、願ってもないことだ」と思った。だからどうしても厳しくなるよね。それも2年間という期限付きでやらなきゃいけないわけだから。
瀧本:気迫がありましたもん。それも愛があったというか、「コイツを絶対になんとかしてやる」っていう情熱がすごかったですよね。
猪俣:そうだね、情熱はあったね。そうしなきゃ、俺が雇われている意味がないから。
瀧本:当時、先生もノリにノッてる時期で、「お前ら、ちょっと来い!」ってスタジオ・レコーディングの現場を見学させてもらったり、ものすごい経験をたくさんさせてもらいました。
猪俣:現場にはけっこう連れて行ったよ。だって一番勉強になるから。
──アシスタントとかボーヤとしてではなく、生徒ということで?
全員:そうですそうです。
瀧本:こっちはガキだから、もう別世界ですよ。
宮崎:18歳だからね。
猪俣:それは感じるかもしれないね、初めてスタジオに来たら。
瀧本:「プロってこういう世界なんだ……」って、1歩も動けないみたいな(笑)。
岡本:こういう場所で堂々とプレイできるってことは、相当な自信と、あとはメンタルも相当しっかりしてないとダメなんだなと思ったもんね。
瀧本:相当うまくならないとダメだと思った。
岡本:ビビってしまったら終わり、みたいな。
猪俣:このメンバーが生徒でいた頃は、全部同録だったから、なおさらだよね。
岡本:指揮もいて、指揮棒のどこがアタマかわからなかったりして。(タクトの)上で“ワン”なのか、下で“ワン”なのかわからないわけ。俺らは下で合わせてたら「どうも合わねぇな」って言われて(笑)。
瀧本:俺も映画音楽やるまで知らなくて、下で合わせてたら「瀧本さん、わかってないね」って言われたもん。それに、もう慣れてる棒振りの人は「今日は瀧本さんなんで、全部ダウンでいきます」って(笑)。
猪俣:またその当時、一番棒を振った吉澤博さんっていう人が、そっち(上)が多かったんだよ。(振り上げの)動きが大きいからどこを見ていいかわからない(笑)。
瀧本:今思い出したけど、吉澤さんはストップウォッチを見ながら、テンポを変えていくのがもう絶妙でしたよね。
岡本:そうそう。じわじわ上がり下がりしていったりね。それはすごく人間的だよね。
宮崎:でもこっちは、譜面も見ながらそれについていかなきゃいけないから、それが大変なんだよ。
瀧本:映画だと、よく早稲田のAVACOスタジオなんかで、スクリーンを降ろして映画を観ながら演奏したこともあったね。
猪俣:映画(の劇伴)はほとんど全部、画で合わせてたからね。画の下に(カウント代わりに)プップップッって3つのサインが出たら次が始まるっていう合図で、指揮者はそれをわかってるわけ。
瀧本:ある意味、テクノロジーは何もないから、先生をはじめ、1人1人の職人技で成り立ってる感じですよね。
猪俣:そうだね。職人技って言葉は正しいかもしれない。
瀧本:だからもう、とんでもない世界に入ってしまったなという感じでしたよ(笑)。
宮崎:それはコマーシャルの世界もそうですよね。
瀧本:コマーシャルだと、尺合わせするのに、当日クライアントさんが現場に来て「この部分はコレに合わせてくれ!」とか言ったりするから、「じゃあここまでは4/4(拍子)で、ここからは3/4で、最後は5/4にしよう」とかムチャクチャなことやってたもんね(笑)。現場処理もいいとこ。
──では、猪俣猛の叩く姿を、みなさんがプロ・ミュージシャンとして現場に出る前に見られたってことが、貴重な体験だったわけですね。
瀧本:メンタルも含めてね。舞い上がったら終わりですからね。できるものもできなくなっちゃう。
岡本:うまくても、それが発揮できないもんね。
宮崎:それが大きい。
猪俣:あの当時は、指揮棒と譜面を両方見られるドラマーはほとんどいなかったから、そういう点ではものすごく忙しかったね。めっちゃくちゃ稼いだよ。
岡本:猪俣さんに頼まないとできないってことですもんね。
猪俣:だから当時は、3ヵ月に1回アメリカに行ってたの。お金余っちゃうから。稼いだ分だけ家に入れて、それが家の収入だとカミさんに思われちゃうといけないから、決めた額だけ入れて、余った100万円くらいを持ってアメリカ行っちゃう(笑)。当時、1ドルが360円くらいのときにね。
瀧本:猪俣さんの時代は、スタジオ・ミュージシャン自体が少ないし、かつ初見で演奏できるなんてすごく少なかったと思うんですけど、石川晶(1934-2002)さんは少し上ですか?
猪俣:年齢は1つ上。石川さん、田畑さん(貞一/1936-)、僕で“三羽ガラス”だった。
岡本:猪俣さんとか石川さんの後に、ポップスでは田中清さん(1948-)とかポンタさん(村上“ポンタ”秀一/1951-)とか林立夫さん(1951-)とかが出てきて。
瀧本:僕らはその下の世代だもんね。僕らくらいの世代──渡嘉敷(祐一/1955-)とか、残念ながら亡くなっちゃったけどアオジュン(青山純/1957-2013)とか──までは、まだスタジオの仕事がたくさんあって、良い時代だったんだよね。アイドルが出てきて、ロックにどんどん移行していってっていう。
岡本:渡嘉敷は同じ歳だもんね。
ネム音楽院時代の宮崎
──また少し話を戻しますが、当時ネム音時代に、猪俣さんが特に力説されていたことって覚えていますか?
宮崎:言葉としては覚えていないんですけど、やっぱり、アンサンブルを大事にしろってことは、ニュアンスとしてすごく受け取ってると思います。その時のその時の他の楽器とのアンサンブル。
猪俣:それはかなりうるさく言ったかもしれないね。(他の楽器との)“バランスを考える”ってこと。それから(自分自身の)楽器のバランスも。明らかにシンバルだけデカいのがいるし、スネアだけデカいのもいるし。
宮崎:そうそう。他の楽器とのバランスと、自分自身のドラムのバランス。
瀧本:今、3人共それぞれのバランスを持ってるように、当時、“ドラム・セットとして成立させる”ってことは、猪俣先生からものすごく教わったと思う。“自分のドラム・セット”ってこういうバランスで、それが“ドラム・セット”なんだよっていう。先生は、8ビート、シックスティーン・ビートもものすごくうまかったけど、それと4ビートでは、ベースでビートを作る楽器が変わるから、4ビートは(トップ・シンバルでの)シンバル・レガートとハイハットのバックビートだけでグルーヴを出さなきゃダメだ、っていう、そのグルーヴ感に関しては、ものすごくうるさく言われたと思う。
宮崎:それはうるさく言われた。
瀧本:「お前のは全然グルーヴしてない」って。「“そこ”じゃないんだよ」ってよく言われた(笑)。基本は(オンビートの)4つだけでグルーヴさせなきゃいけないんだよ、って。それを基にウラが絡む。だから、“コォーン コォーン コォーン コォーン~”って4ビートがきっちり流れてないと4ビートじゃない。……って、先生、そうおっしゃってましたよ。違います(笑)?
猪俣:そんな良いこと言ってた(笑)?
──(笑)。それを言葉ではなく、やっぱり“見て盗め”、“見て学べ”ってことだったんですね。
岡本:そうですね。あとは(4ビートで)ハイハットの“チーチッチチー~”っていうオープンの開ける場所が、お前たちは違うんだよ、ってよく言われました。“ッチシーッ”じゃなくて、その前からオープンして“ッシシーッ”だって。それで、あ、そうなんだ!って思いましたよね。
──当時のレッスン形態というのは、それぞれ個人レッスンだったんですか? グループ・レッスンだったんですか?
宮崎:グループです。この3人とあと1人。
瀧本:まぁグループっていっても4人じゃないですか。とにかく先生がバッと言ったことを、あとは練習するもしないもお前ら次第ってことですよね。
岡本:そのあとに自分で練習するからこそ、猪俣先生が言ってたことが、あとでわかるようになってくるんだよね。“プロになって初めてわかった”なんてことがほとんどだったけど(笑)。
猪俣:みんなそんなもんだよ。
瀧本:50歳過ぎてわかったことがいっぱいある(笑)。
──グループ・レッスンのときには、例えば瀧本さんが教わって叩いてるときには、残りの3人はそれを聴いているんですか?
岡本:そうそう。だから、宮崎はものすごくしっかりキックが踏めてるな、とかわかるんですよ。俺はまったくできなかったんだけど、宮崎のキックが素晴らしくて、なんでできるの?って聞いたら「ジョン・ボーナムを聴いて練習した。あとはサッカーやってたからじゃない?」とか言ってたけど(笑)。すごく良いタイミングで“ットトン!”って入るんだよね。俺が思うに、キックが良いところに入る人って、当時プロでもあまりいなかったんだよね。手はすごいんだけどキックが……って人が多くて。
宮崎:そんなふうに思ってたんだ(笑)。
瀧本:岡本のキックも良いよ。
岡本:いやいや(笑)。できなかったから、プロになってなんやかんやしてるうちに、ちょっとずつそれらしくなってきたというだけで。当時はただ(音が)デカいだけ。
瀧本:地を這うような、地割れするような岡本のビートは、俺なんかできないもん。で、岡本が言う通り、宮崎のサンバ・キックは最高だよね。
宮崎:そう? でも俺はね、それを猪俣さんから教わってるんだよ。猪俣さんの、シックスティーン・ビートのツーッといく感じ、あれを練習してるのを見て盗んでるんですよ(笑)。それ以来、“この感じ”っていうのが身体の中に入ってますよね。
岡本:俺も猪俣さんのキック、すごいなと思ったもん。めちゃくちゃ正確にビシッとプッシュ気味に入るんですよ。
宮崎:あと、スネアの位置とね。
岡本:そう。猪俣さんはマッチドもやるけど、レギュラーでなんでこんなキレのある音が出せるんやろう、とか、なんでこんなにリムをかけたりかけなかったりするときのメリハリが出るんやろう、ってよく思ってた。自分がやるとそうならない。でも、あとになって(支点以外の3本の指の)フィンガー・コントロールとストロークなんだってことがわかったんですよ。
瀧本:俺も猪俣さんに習って、レギュラー(グリップで)のバック・ビートは本当に自信あったもん。猪俣さんのストロークのシャープさとかを実際に間近で体験して培われたものだと思う。
宮崎:だからやっぱり言葉じゃないんですよね。やっぱり“見てる”っていうのが大きかった。
瀧本:こうやって話してると、お互いをリスペクトできるのは、やっぱりそれぞれのドラムはそれぞれオンリーワンなわけじゃない? そういうものを持ってやっていくってすごく大事だと思ってるのね。誰かと比べちゃうと「これはこいつの方がすごい」って話になっちゃうけど、音楽ってそういうものじゃないじゃない? だから、自分が叩くとこうなるんだなっていうのを大事にしたい。当時のスタジオだって、この曲をやりたいから猪俣さんに頼もう、ヘヴィなロックをやりたいから岡本を呼ぼう、ってアレンジャーなりが選んできてたわけで、そこはやっぱり、当時猪俣さんからいろんな刺激を受けたおかげで、そのあと各々が“自分らしさ”みたいなものを自然と身につけてこられたんだと思うし、それを自分自身は誇りに思っていいと思ってるんだよね。
岡本:まとめるやん(笑)。
瀧本:いやいや、まだまだ話は続きますよ(笑)。
長渕剛のバックで叩いていた当時の瀧本
──(笑)。3人の中でライバル意識ってあったんですか?
猪俣:それはあったかもしれないね。
宮崎:それはありましたよ。岡本なら岡本の、瀧本なら瀧本の良いところはあったし。
岡本:良い意味でライバル心があったから、切磋琢磨したということなんだろうしね。
瀧本:ネム音を卒業したあとも、絶対、岡本は今こういうことやってんだ、宮崎はこんなことしてるんだ、って意識してて、俺も頑張ろうっていう励みにもなってたしね。あとはやっぱり嬉しいんだよね。みんな変わらずやってるんだって。今日もこうして猪俣先生を囲んで会えるなんて、本当に幸せだと思う。ミュージシャンとしてはもちろん、人として(笑)。今まで生きてきて良かったね、みたいな。
猪俣:良い生徒を持てたね(笑)。俺はそう思うよ、本当に。今日ここに来るときにも女房に言ったのよ、「昔の生徒たちがこういう会をやってくれるんだよ」って。